旧三福不動産|小田原市にある不動産&リノベーションの会社

あの人と小田原 ―果樹園農家 野地賢二さん・富江さん―

小田原に長く住んでいる人には、どんな方々がいるのでしょうか?
その人の半生から、そこから垣間見れる小田原の知られざる歴史まで。ひとりの人、ひとつのお店を通して、小田原を深く掘り下げるコラムです。
 

みかん商品化の黎明期から栽培を始めたパイオニア

小田原の特産物といえば、みかんをはじめとする柑橘類が代表選手のひとつ。夏は涼しく冬は暖かい温暖な気候と適度な雨量がみかんの成長を支えています。市内で主に栽培されているのは、早川・片浦地区、久野地区、国府津・下中地区、曽我・下曽我地区などの丘陵地帯。少し小高いエリアを車で走っているとみかん畑をよく見かけます。シーズンになるとあちらこちらに無人販売が出て、おいしそうなみかんが路端に並ぶのも小田原の風物詩。みかんは小田原市民にとってとても身近な存在です。
 
 

曽我の小高いみかん畑の合間からまちなみが見渡せます


こちらは江之浦のみかん


小田原でみかんが栽培されるようになったのは江戸時代と言われていますが、本格的に商品化され始めたのは1887(明治20)年の東海道鉄道、翌年の小田原馬車鉄道の開通がきっかけです。田島地区に、その時代からみかん栽培を始め、100年以上の時を越えて今もみかんを作り続けている農家さんがいます。みかんと梅を中心にさまざまな果樹を栽培する野地賢二さん、富江さんご夫婦です。富江さんは〈燦々工房〉として収穫したフルーツを使ったジャムや梅干しなどの加工品の製造と販売もしています。嫁いだ3人の娘さん家族も手伝ってくれているそう。
 

中央が賢二さん。左手は長女の夫・洋一さん。右手は三女のみづ江さん


富江さん。梅干しの選別作業中です


賢二さん(以下、K):「もともとうちは養蚕農家だったんですよ。それをうちの爺さんの代でやめて桑畑の跡で蕎麦を作っていたんだけど、みかんが儲かりそうだという時代になってきて山全部をみかんに切り替えたんだ」
 
養蚕農家からみかん農家への大胆な転身を決めた賢二さんの祖父・勝造さんは、実は1948年に国府津町に編入合併された田島村の最後の村長さん。地元でも信頼の厚い方でした。勝造さんは先見の明があったようで…その後みかんは徐々に全国で人気になっていき高値で取引されるようになっていきます。
 

賢二さんの祖父・野地勝造さん。右は赤ちゃんだった長女・智美さんと富江さん


富江さん(以下、T):「もうね、すごいお金になったんですって。みかんのトラック一杯で花嫁道具が用意できたっていうくらい。その頃はうちにもみかん畑が6,7箇所あってすごい量を作ってたの。私が嫁いで来た頃にも、毎年新潟から出稼ぎのお姉さんたちが2ヶ月くらい泊まり込みで手伝ってくれてたんだから」
 
K:「そうそう、あんないい時代はもうないよなぁ…。昔はさ、みかんを半年世話すればそれで生活が十二分に潤ったんだ」
 
なんと、小田原のみかんにそんなすごい時代があったとは…!全国的にも、1960年代にはみかんは日本農業の成長部門として位置づけられ、生産量は60年の103万トンから75年には367万トンと15年で3.6倍にもなりました。
 

野地さんのお宅ではありませんが、昭和29年(1954年)に市内で撮影された、みかんを箱に詰める様子[おだわらデジタルミュージアムより]


 

みかん黄金時代の終焉を機に兼業農家へ

そんなみかん全盛期にも、ある時一気に陰りが見え始めます。
 
K:「昭和47年(1972年)に全国でみかんの収穫が360万トンにもなって、価格が大暴落したんだ。あれはびっくりしちゃったよ…みかん農家が増えすぎたんだよな。そこからはもうみかん産業にとっては暗いトンネルだ」
 
この時、賢二さんは大学の園芸学部を卒業したあと柑橘連で営農指導員(農業の技術・経営や農畜産物販売について農家の相談相手になり、指導を行う)として働いていました。
 
K:「親父は俺に早く百姓をやらせたいから“10年だけサラリーマンやらせてやる”って話だったんだけど、みかんがこの値段じゃ暮らしていけないってことになって、俺はそのまま団体職員として働くことにしたんだ」
 
このみかんの大暴落を機に、賢二さんの代からは兼業農家としてやっていくことになりました。同時に年間を通して収入を得られるよう、みかん以外にも作物の種類を増やしていきました。現在ではみかん、湘南ゴールド、はっさくなどの柑橘類、梅、キウイを中心に、銀杏や塩漬け用の桜、ブルーベリーなど様々な果樹を栽培しています。
 
T:「この人は仕事で営農指導をしてたでしょう、うちの畑でもいろんなものを他よりも早く取り入れてたのよ。湘南ゴールドなんてこの辺じゃ一番早かったの」
 

みかんの収穫を行う賢二さん


みかん狩りの季節には家族総出でにぎやかに収穫作業!


勤め先でも農業のプロフェッショナルとして働く賢二さんのアイディアやノウハウで、兼業農家でありながら先進的な取り組みを行っていました。そんなお父さんのことを“育てるのが好きだし得意なんだろうな、尊敬します”と三女のみづ江さん。
一方で、富江さんもちょっと農家らしからぬユニークな事業を始めます。とにかく常に何かしていたい、何でもやってみたくなっちゃう、という富江さんが2008年に始めた〈燦々工房〉は意外な商品を売り出しました。
 

農家だけど、手作りパンが大人気に!

T:「成田の“朝ドレファ〜ミ”(JAが運営する農産物直売所「朝ドレファ〜ミ♪成田店」)が開業する時に、何か出してくれないか、って農家だから声が掛かったの。でも野菜はもう他の人たちが出してるでしょ?ちょうどその頃パン作りにはまってたから、ちょうどいいや、ってパンを出すことにしたの」
 
農家がパン!ずいぶん畑違いな気もしますが、三女のみづ江さんが生まれるまでは高校の家庭科の先生であり、作ること全般が大好きだった富江さん。そこに元来の何でもやってみたい性分が加わり、パンの出品にはまったく迷いはなかったそう。現在も販売しているジャムと梅干しもこの当時から作っているロングヒット商品です。ちなみに燦々工房のシールやラッピングなどのパッケージデザインはみづ江さんが担当しています。
 

朝ドレファ〜ミでの陳列風景。一番売れたのは右上食パン「燦々ブレッド」。右下の梅入り白あんぱんも人気でした


T:「どうしようかな、と思うともう手が動いてるの。それで商品を作り始めちゃったら、あとはもう絶対美味しく作るしかないじゃない?」
 
販売が始まると、富江さんの作るパンは瞬く間に噂になり大人気に。開業したばかりの朝ドレファ〜ミに富江さんのパンがたくさんの人を呼んだのです。
 
T:「“おいしいパンがあるよ”なんて噂してもらってたみたいで、オープンしてすぐに行かないと買えなかったんだって」
 

曽我梅林の梅まつりでも野地家の畑で燦々工房の商品を販売して大人気でした


シンプルな食パンから菓子パンまで作り、一時は農家よりもまるでパン屋さんのようだったそう。朝ドレファ〜ミ以外にも、みづ江さんが燦々工房の商品を携えて各所にイベント出店するなど市外で販売することも。時には横浜から買いに来る人がいたり、美味しかったとお手紙をもらったりとたくさんの方に愛されながら6年ほど続けました。パンの製造販売を終了して10年近く経つ今でも“またパンやらないの?”とリクエストされることがあるそう。
 
現在はジャムと梅干しが〈燦々工房〉の主力商品。このジャム、くどくないすっきりした甘みと自然でフレッシュな香りで飽きが来ないんです。さらに、野地家の畑で獲れた果実とお砂糖だけでつくられた無添加だから安心。富江さんのおすすめはブルーベリー!きれいな色を出すために火加減にとても気を遣っているのだそう。一口食べるごとに幸せな気持ちになる、優しくて本当においしいジャムです(旧三福不動産事務所のある、旧三福ビルヂング1Fの「十二庵キッチン」でも購入できます!)。
 

ブルーベリー、湘南ゴールド、キウイ、梅、はっさくなどすべて野地さんの畑で獲れた果物です


果実感がしっかり残るジャムはヨーグルトやアイスにかけてもおいしい


 

少しずつ形を変えながら引き継がれる農業のバトン

これから〈燦々工房〉をどうしていきたいですか?と富江さんにお尋ねしてみました。
 
T:「加工品って独特だからね。今は頑張れるからやってるけど、私ができなくなったら燦々工房はおしまいかな…みんなそれぞれ仕事を持ってるしね」
 
実は、富江さんも賢二さんも3人の娘さんたちに農家を継いでほしいと思ったことはないのだそう。
 
みづ江さん:「子ども時代にも家のこと手伝えなんて一度も言われたことなかった。むしろ継いでほしくなさそうで…やっぱり農家が大変な時代だったと思うから、ちゃんと勉強して農家以外の仕事に就いてほしい、っていう感じだったかな」
 
T:「私が家庭科の先生だったでしょ。だから教え子にも、女でも男と肩を並べるような力を付けなさい、って言ってたの。そういうことを感じ取っていたのかな、だから今でも3人とも仕事を続けてるよね」
 
そんな野地家ですが、最近意外な人が農業に興味を持ち始めました。それが賢二さん、富江さんと同居する長女・智美さん一家の夫・洋一さん。賢二さんたちがキウイの栽培をやめようとしたところ、洋一さんが名乗りをあげました。建築家として活動しながら、農作業を積極的に手伝っています。
 
洋一さん:「もちろん前から手伝ってはいたんですが、コロナ禍で自宅にいる時間が多くなってすぐ身近に山があって畑があって…っていうのを改めて見ていたらもっと畑のことをいろいろやってみたいな、と思って」
 

キウイ畑にいる洋一さん


今はキウイ以外にも自家用のお米の世話などは洋一さんが担っており、部分ごとに代替わりしつつあります。また十二庵キッチンにはジャムと梅干しだけではなく季節ごとのお野菜も納品していて、直接の販路を増やしていくなど兼業農家として新しい形を模索しているところです。みづ江さんはWEBサイトを作ってみたい、とも!さらに、畑の一角で育てているサボテンをイベントで販売したりもしています。賢二さん、富江さんがいろいろな取り組みを行ってきたように、次の世代の野地家からも、二足のわらじだからこその新しいアイディア、チャレンジが生まれてくるかもしれません。
 

お孫さんたちもよく畑に遊びに来るのだそう


担い手不足や輸入野菜との価格競争など、現代の農家さんを巡る状況は決して良いものとは言えません。そんななかで私達が安心して農作物を食べられるのは、農家さんの日々の丁寧なお仕事があってこそ。地元でおいしいものを作り続ける野地家の皆さんの歴史や工夫を知って、小田原産の果物やお野菜を大切に美味しくいただこう、という気持ちがより強く湧いてきました。旧三福ビルヂング1Fの十二庵キッチンにお越しくださったら、ぜひ〈燦々工房〉のジャムや梅干し、(運が良ければ)お野菜や果物を試してみてください!小田原のおいしい農産物のことをたくさんの方に知ってもらえたら嬉しいです。
 

参考文献:
小田原市(2015年).「神奈川県内収穫量1位!小田原のみかん」(参照2024-08-23)
小田原市(2023年).「暮しのしおり2 0019 ミカン農家」.おだわらデジタルミュージアム.(参照2024-08-23)
農林金融(2002年).「みかんの需給動向とみかん農業の課題」.国立国会図書館デジタルコレクション(参照2024-08-23)

 
▼こちらでは米農家でありお米屋さんの「志村屋米穀店」さんをご紹介しています

あの人と小田原 ―志村屋米穀店・志村成則さん―