旧三福不動産|小田原市にある不動産&リノベーションの会社

あの人と小田原 ―平井書店・平井 義人さん―

 
小田原に長く住んでいる人には、どんな人がいるのでしょうか?
その人の半生から、そこから垣間見れる小田原の知られざる歴史まで。ひとりの人、ひとつのお店を通して、小田原を深く掘り下げるコラムです。
第1回〜3回までの文章と写真は、となり町の真鶴で出版社と宿泊施設を運営する「真鶴出版」さんが担当します。
 

小田原の歴史と共にある本屋

小田原駅からまっすぐ歩いて約5分。
小田原郵便局の向かいに〈平井書店〉という本屋があります。
〈平井書店〉には新刊本や小説、絵本、漫画などさまざまなジャンルの本が満遍なく置かれています。
そしてそれだけでなく、「郷土の本」の棚があったり、「メディア批判」や「死」をテーマに選んでいる棚もあったりと、声高には主張はしていませんが、たしかにお店の思想を感じる本屋です。
 
それもそのはず、店主・平井義人さんはもう4代目。
〈平井書店〉はかつて山縣有朋も訪れた、120年以上続く由緒正しい本屋なのです。
 

店の前を走るのは国道255号。駅から少し離れているものの、多くの人や車が行き交う。


入って左手にある「郷土の本」の棚。最近発売した『小田原本』のような雑誌から、北条氏にまつわる本まで揃える。


「江戸末期には両替商を営んでいて、明治初期は教科書の制作や印刷をしていたと聞いています。今でも〈小田原印刷社〉という会社があるけど、あそこは分社です。〈平井書店〉を始めたのは明治29年ですね」
 
平井さんはそうして、お店の歴史を小田原の歴史と交えながら話してくれました。
 

明治29年に平井書店が発行した『小田原按内記』を見せてくれた。当時は書店が出版物を制作することも多かった。


そもそも「書店」という業態が始まったのは明治20年代だといわれています。
それまでは本は高価なもので“所有する”という概念がなく、書店ではなく貸本屋が本を“貸し出し”していました。
つまり、平井書店は全国的に見ても歴史のある書店ということになります。
 
「最初は今の〈さがみ信用金庫本店〉のあたりで営業していたんです。それが関東大震災で火事になって焼けてしまった。それで今の場所に移動したんです。当時のまちの中心は今のように小田原駅ではなく、東海道(現:国道1号周辺)でした」
 

平井さんが見せてくれた、関東大震災以前、1922年の小田原の地図。オレンジの箇所が当時平井書店のあった場所で現在(赤箇所)より南側にあった。


小田原は時代によってまちの中心が移動しています。
江戸時代は東海道周辺。
東海道を歩いて関東から静岡方面に抜けるとき、箱根越え前の最後の宿場町として栄えました。
しかしその後、明治時代に鉄道が発達してからは、鉄道が箱根の山を避けるために小田原の手前、国府津から北の御殿場へ向かうようになりました。
国府津がターミナル駅となり、小田原は一ローカル駅の一つとなったのです。
 

 


「今のようにまちの中心が小田原駅に移ったのは、1934年に丹那トンネルが開通してからですね。丹那トンネルにより、東京から小田原を経由して静岡まで通過できるようになった。そこから小田原駅前が発達していったんです。だから一番古いのは東海道周辺のかまぼこ通りのお店。10代以上続くお店があります。次に東海道と小田原駅の中間にあるうちのお店周辺。うちと同じように創業100年前後のお店が多いですね。駅周辺のお店は創業70~80年のお店が多い」
 

 


丹那トンネル開通後、再び小田原は関東の交通の要となりましたが、しばらくして太平洋戦争が始まりました。
平井書店も、道路を拡幅し戦火の延焼を防ぐことを目的に、お店が強制撤去されてしまいます。
 
「祖父は徴兵されて満州に出兵していたため、父が高校生ぐらいからお店に立っていました。強制撤去でお店がなくなってしまったので、駅前に行って本を並べて出張販売をしたり、バラックを建てて販売していたと聞いています。多分この一帯のお店はみんなそうしていて、本当に修復するまでには戦後二、三年かかったんです」
 

小田原生まれ書店育ち、サラリーマンになる

平井さんは1963年生まれ。
戦後新たに今の場所に建てられた木造二階建てのお店で、小学生の頃から店番をして育ちました。
 
「当時はまだ暖房がなくて、火鉢で店番をしていた記憶はありますね。手塚治虫さんの『火の鳥』や長谷川町子さんの『サザエさん』など、ちょうど漫画が流行りだしたときで。子供に立ち読みをさせないためにレジの後ろにコミックの棚があって、僕はずっと店番をしながら読んでいました(笑)」
 

 


しかし、大学卒業後は家業を継がず、防災メーカーに就職しサラリーマンとなります。

「もちろん実家のことも気にはかかっていたんですけど、本屋さんって当時は男性が少なくて、あまり馴染めなかったんですね。それに当時は水俣病やイタイイタイ病などの公害問題や環境汚染がクローズアップされ、青臭いですがそこで社会に貢献したいという思いがあったんです。」

バブル全盛期。
新しい建物がどんどん建ち並び、現場が追いつかないほどにプロジェクトが増えていきました。
しかし時代のダイナミズムとは裏腹に、勢いに乗る会社とのギャップを平井さんは感じ始めます。

「父からは戻って来いとも、継いで欲しいとも言われたことはない」そうですが、31歳のときにメーカーを退職します。一年間東京・中野ブロードウェイ内にある書店で修行をした後、平井書店に戻ってくるのです。

「小田原に戻ってきてから数年間は、売上をどうしようかということばかり考えていたんです。でも、35、6歳のときかな。前職の同期に、『お前はなにを目指してるの?』と聞かれたんです。会社を後ろ向きな理由で辞めていたので、なにかを目指して本屋になったわけじゃなかったんですね。それですっかり悩み始めてしまって……。自分を見つめ直すためにどこかに行こうと、旅に行くようになったんです」
 

 


 

地域の“きっかけ”をつくる活動

最初に地元の友達と行ったのは与論島。
その後戻ってきて、今度は一人で八重山の西表島に向かいました。
そこで平井さんが見つけたのが「地域」でした。
 
「旅の最後に白浜の金城旅館に泊まったんですが、そこでおかみさんがすごく話を聞いてくれて。そうしたら、たまたま敬老の日で、公民館で敬老会をやるから、スタッフとして行って来いって(笑)。泊まりに来た人間に言うなんて面白いなと思ったんけど、一通り手伝ったら最後はおばあにすごく感謝されて……。その時に思ったんです。こういうコミュニティ良いよなって。知らないうちに都会じみてしまっていたけど、もっと地域にフォーカスしていったほうが面白い。そっちのほうが自分を生かせるんじゃないかと」
 
この気づきが転機となり、平井さんは小田原でも地域の活動に取り組み始めます。
〈マツシタ靴店〉、〈はなまる農園〉、〈志村屋米穀店〉など、地域で自分より一回り下の世代の人たちと「小田原まちなか朝市」を企画したのです。
場所は平井書店の駐車場。
2009年から始めた「小田原まちなか朝市」は今でも続き、累計150回以上になります。
そこから年に二回のお祭り「小田原まちなか軽トラ市」や「小田原まちなか本箱」にも派生しました。
 

 


2020年11月に行われた「小田原まちなか本箱」の様子。子供から年配の方まで、幅広い層が訪れる


さらに、それらの地域での経験が、書店にも生かされるようになったと言います。
 
「4年ぐらい前に、自分本位なもの、本業もちゃんとやらなきゃって気づいて(笑)。それで一度書店でブックトークを企画してみたら、これがよかったんですね。多分観客は15人も来てないんだけど、書店でこういうこともできるのかとなにかを掴んで。小田原まちなか朝市はある程度ルーティーン化してきたので、これからは本のイベントをガンガンやっていきたいですね。それに来年は店が開店して125周年。小田原の江戸時代までの歴史はまとまっているけど、明治以降の一般向け書籍が少ないんです。そういうものをまとめていきたいなと思っています。そして、若い人たちがまちを新陳代謝するためのきっかけづくりができたら良いかな」
 

 


 
▶︎積善堂 平井書店
住所)小田原市栄町1-16-29
営業時間)10:00-19:00(土:11:00〜18:00、日・祝:12:00-17:00)
定休日)1月1・2日、5月6日、その他不定休(月に二回位)
 
 
▼前回ご紹介した、ポンデケージョ専門店「grit」の伊藤さんのお話もあわせてどうぞ。

あの人と小田原 ―grit・伊藤さん―