旧三福不動産|小田原市にある不動産&リノベーションの会社

あの人と小田原 ―勝福寺 峯 孝雅さん・栄雅さん―

 
小田原に長く住んでいる人には、どんな方々がいるのでしょうか?
その人の半生から、そこから垣間見れる小田原の知られざる歴史まで。ひとりの人、ひとつのお店を通して、小田原を深く掘り下げるコラムです。
 

巡礼街道はどこを“巡礼”するための道?

“巡礼街道”、小田原で暮らしている人ならきっと一度は通ったことのある、主要な道路のひとつです。酒匂川の東側を東西にまっすぐ約4km横断し、沿道には大型店やショッピングモールが立ち並びます。
「巡礼街道」と言えばどこのことかは誰でもわかる。でも、この道がなぜ“巡礼”街道と呼ばれているのか、その由来を知っていますか?
 

巡礼街道。小田原駅方面と国府津方面をつなぐ便利な道路です


1963(昭和38)年に撮影された巡礼街道の様子(小田原デジタルアーカイブより)


この道は、“飯泉観音”こと〈勝福寺〉へ参拝する人々のために作られた道。〈勝福寺〉は関東各地にある三十三ヶ所の観音霊場を巡る「坂東三十三観音」の札所のひとつで、多くの巡礼者がここを目指して歩きました。そこから、この道は“巡礼街道”と呼ばれているのです。実はその歴史は東海道よりも古く、鎌倉時代にはすでに整備され多くの人々が往来していたと考えられています。
その巡礼の目的地である〈勝福寺〉の歴史はさらに古く、創建は約1,200年以上前。天平神護元年(765年)、道鏡が小田原市千代にお堂を建て、鑑真が唐から請来したとされる十一面観音を本尊として祀ったのが始まりです。天長7年(830年)に現在の飯泉の地へ移り、二宮尊徳や徳川家康も参拝したと伝わるなど、ずっと小田原のまちを見守ってきました。
 

勝福寺の仁王門。宝永年間(1704-1711年)の作で、両脇の金剛力士立像も迫力満点!


かつての仁王門。茅葺き屋根が時代を感じさせます


本堂は神奈川県指定重要文化財。1706年に再建、1968年に半解体修理され守られてきました


かつての本堂。こちらも1968年の修理までは茅葺きだったそう。両脇には現在と同じ石燈籠が建っています


その歴史を受け継いできたのが、現在のご住職、峯孝雅(みね・こうが)さんです。そして孫である大学4年生(取材時)の栄雅(えいが)さんは、卒業後に1年間の修行を経てその道を継ぐことになっています。家族であり、これからは師匠と弟子のようでもある、そんなおふたりにお話を伺いました。
 

「膨大な知識と深い思考を携えた、生きた教科書のような人」

住職・峯 孝雅(こうが)さん


1938年生まれのご住職は、小学2年生で終戦を経験し、その後復興と共に成長してきました。高校1年生で得度式(僧侶になるための最初の儀式)を受けて以来60年以上仏教の道を歩んでおり、現在は勝福寺の住職を50有余年務めています。
そんなご住職の姿は孫の栄雅さんからはどう見えているのでしょうか。栄雅さんは、このインタビューの約2ヶ月後に僧侶になるための修行へ出る予定です。

栄雅さん(以下、E):「普段は本当に優しいおじいちゃんです。怒られたことは1回もないですし。でもふとした瞬間にすごいお坊さんだな、と思うことがあって。例えば僕が仏教について聞くと、ものすごくわかりやすくて精度の高い答えが返ってくる。生きた教科書のような人なんです。これがいかに膨大な知識と深い思考によるものかというのは、僕も出家して勉強を重ねて初めて理解できるんだろうと思います。こんな人がすぐそばにいるなんてすごく幸運なことです」
 

「天鈞」―“是も否も平等である” 住職が大切にする教え

住職の穏やかな佇まいと優しい語り口からは、悟りとはこういうことなのかもしれない、と感じさせられます。そのあり方の根底には、長年の修行の末に行き着いたある教えがありました。

孝雅さん(以下、K):「仏の教えのひとつですけれども、私が非常に大切にしている言葉があります。“天鈞(てんきん)”と言いまして、宇宙から見れば是も否も平等である、という意味なんですね。夫婦喧嘩にせよ国家同士の揉め事にせよ、遠く離れて見ればコップの中の嵐であって、こっちが言っていることも本当だし、あっちが言っていることも本当。敵も味方もないんです。国の違いもない、等しく宇宙の子である、と。これこそがみんなが仲良くする手段なんです」
 

住職の筆による“天鈞”の文字。柔らかな筆運びから人柄が伝わります


ご自身の生きてきた経験や僧侶としての修行の日々のなかで行き着いた考えは、現代に生きる私たちこそ胸に刻むべき言葉だと感じました。この“天鈞”の教えは、孝雅住職自身の信念であると同時に、勝福寺が長きにわたって地域社会に対して開かれてきた歴史そのものにも通じています。
 

寺子屋、集会所…村の誰もが気軽にお寺に出入りしていた時代

住職にとって最も古い記憶もまた、お寺がコミュニティの起点であった時代の風景です。大切そうに見せてくださった一枚の写真には幼き日の住職の姿がありました。
 

本堂の前で。左手の「飯泉山託児所」の看板の真下に立つ少年が孝雅住職。上段中心の袈裟姿は住職の父・堅雅さん(1943年頃撮影)


K:「これはね、私が5歳の時の写真です。近所の子どもを集めて、『飯泉山託児所』という寺子屋のようなものをこのお寺でやっていたんですね。父が教育者だったものですから、アメリカ帰りで英語が達者な人や学者さんなど村のインテリを集めて“修身”(戦前の道徳教育)や読み書き算盤を子どもたちに指導していたんです」

ご住職の父、峯堅雅(みね・けんが)さんは僧侶であり教育者でもあった方で、熊本や静岡の大学や師範学校の学長のほか、現在は神奈川県立小田原高校と統合された小田原城内高校の4代目校長も務めました。

その頃の勝福寺は、寺子屋として子どもたちに開かれていただけではなく、村の誰もが気軽に出入りしていた場所でした。

K:「お寺の本堂の一角を畳敷きにして、そこが村の集会所、今で言う公民館のようになっていたんです。何か会合があっても、飯泉の人たちはのんびりしてるから時間通りに来る人なんかいなかったんですね。そのうち先に来た人が横になって寝ちゃったりしてね」

なんとのどかな風景!本堂でうたた寝するだなんて今となっては恐れ多いような気さえしますが、それくらい仏教やお寺と人々との距離が近かったということなのでしょう。ここに来れば誰かがいて、ちょっと安心できる。この時代、お寺はそんな場所だったのかもしれません。
 

小田原駅から飯泉までお祭りムード?!一晩中にぎわった昭和の「だるま市」

地域の人々が出入りするおおらかで開かれた勝福寺の姿は、現代まで続く「だるま市」(歳の市)からも感じることができます。だるま市は毎年12月に開催される、子どもから大人まで多くの人たちでにぎわう小田原の冬の風物詩ですが、昭和の時代には今よりもさらに多くの人々が集まり活気を見せていたのだそう。

K:「だるま市はですね、小田原駅前から多古、井細田のあたりまで一晩中店が開いていたという時代があったんです。皆さん駅からずらっと歩いてお参りされたんですね。お寺のお祭りも一晩中でしたから、宮小路から芸姑さんとお客さんが人力車でだるまを買いに来るような風景もありましたね。私も子どもながらに覚えています」

小田原駅から勝福寺までお祭りムード一色の町並み、見てみたいですね!
勝福寺のだるま市、その起源は江戸時代に遡ります。それまではお正月の生活用品を売る市でしたが、縁日の商人さんが境内でだるまを並べてみたら大繁盛したことからだるまが中心の市になったのだそう。ですが、本来だるまは禅宗の縁起物で、勝福寺は真言宗東寺派のお寺。当時売り出した商人さんはお叱りを受けても良さそうなものですが、そこは宗派を飛び越えておおらかに共存しているのが飯泉のだるま市なのです。

だるま市の様子。購入しただるまは本堂で開眼の儀式をしてもらえます


 

伝統を受け継ぎ、次の一幕を作る若き継承者

住職の語る“天鈞”の教え、そして地域と共存してきた勝福寺のおおらかさという伝統は、孫である栄雅さんへと引き継がれようとしています。栄雅さんは出家前ですが、すでに地域とお寺をつなぐ活動「てらとわ」のメンバーとして自主的に活動しています。さまざまな活動の一環として、朝に住職の法話を聞いて境内を掃き掃除する「お寺で朝活ワーケーション」を勝福寺でも開催しました。
 

勝福寺の次の時代を担う、峯 栄雅(えいが)さん


勝福寺で行った「お寺で朝活ワーケーション」の様子


現在は前向きな気持ちでお寺に向き合っている栄雅さんですが、そう思えるようになったのはここ1、2年のことだと言います。

E:「僕は小3の時に長男である父が亡くなっているんですが、その頃から自分がお寺を継ぐんだということは受け入れていたんです。だけど、ずっとお寺の歴史も役割も全然知らなくて興味もなかった。でも大学でいろんなことを学んだりスタートアップ企業のインターンに参加したりしていくなかで、徐々に“あ、うちのお寺って面白いのかも”と思うようになって」

修行の時期が近づいたこともあり、祖父・孝雅住職に勝福寺の歴史や仏教について改めて話を聞いてみると、そこには想像以上に豊かな世界が広がっていました。

E:「ただ単に長い歴史があるだけじゃなくて、まちや商店街との繋がりや、長く続くお祭りがあるっていう、地域と一緒に歩んできたストーリーがすごく面白くて。でもそれが全然知られていないから、まずはきちんと広報、ブランディングをしていったらもっと良くなるんじゃないかと思ったんです。でも徐々に地域に根付いて活動することの良さも感じるようになって。お寺もお坊さんも、長くその土地にいるからこそ人脈や情報も豊富で、さらに土地とか建物のリソースもいっぱいある。それってすごい価値だし地域へ提供できるものですよね。
最近、“コミュニティナース”という地域のおせっかい焼きみたいな取り組みがあると知ったんですけど、昔のお寺ってそんな感じだったんじゃないかと思うんです。僕らも地域の助け合いのハブのようなことをやれたらいいのかなぁ、なんて今は考えています。やっていくうちに変わるとは思うんですけど、これが僕の現在地ですね」

*コミュニティナース:具体的な職業や資格ではなく、地域の人の身近な存在として心身の健康に寄り添うあり方。株式会社CNCが提唱・普及に取り組むコンセプト。

昔の写真を見ながら和やかに話すおふたり


若い栄雅さんが新しい時代のお寺のあり方を模索していこうとする姿を、住職はそばで見守っています。

K:「やっぱり若い人の考えで寺院経営というのは大きく変わっていくんじゃないかと思います。お寺を背負うならそれなりの覚悟を持たないといけませんけど、伝統を理解してその中から時代に合ったものを探し出してほしいと思いますね」

E:「仏教やお寺のことを知るほど、どんどん興味が湧いてくるんです。“俺、これからこんな面白いこと勉強しにいくの?最高じゃん!”って。仏教の教えって、極めればおじいちゃんの言う通り世界平和が達成されるほどのこと。だからきっと修行から帰ってきた頃には価値観が100%変わっていると思うんですよね。僕が仏教を知っていくなかで感銘を受けたからこそ、みんなにもどうしたら伝わるだろうといつも考えています」

そのキラキラした瞳からは、僧侶の卵として広く世界を見据え、まちの人々の力になりたいという思いが伝わってきました。世代を超えて受け継がれる勝福寺の開かれた精神。伝統を守りながら新しい形でまちと繋がっていこうとする、勝福寺のこれからがとても楽しみです。
 
▶飯泉山 勝福寺
住所)小田原市飯泉1161
「てらとわ」WEBサイト)teratowa.jp